Add new articles on the evolution of magazines in Japan, focusing on "POPEYE" and "JJ"

- Introduced a new Japanese article titled "雑誌の入れ換えの無意味の時代" discussing the significance of magazine transformations in the 1980s.
- Added a translated Chinese version of the article titled "知性是否会再次浮上", exploring similar themes regarding the impact of magazines on society and culture.
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雑誌の入れ換えの無意味の時代
前回に続いて引き続き1994年に刊行された橋本治の『浮上せよと活字は言う』を読んでいく。この本は橋本治による書物論であり、出版論である。なかでも1970年代後半以後、決定的に大きな変貌を遂げた雑誌について論じることに多くの紙幅が費されている。
よく知られるように、1980年代は「雑誌の時代」と呼ばれた。しかしこの時代には多くの雑誌が生まれただけでなく、休廃刊する雑誌も多かった。意味を失った古い雑誌が消え、新しい意味を担った雑誌が次々に生まれたのであればよいが、この時代に創刊された雑誌の多くも、読者の支持を安定して得ることができず早々に消えていった。こうした事情について橋本は次のように述べている。
「正確な言い方をすれば、一九八〇年代は「雑誌の時代」ではない。一九八〇年代は「雑誌の入れ換えの時代」であり、「雑誌の入れ換えの無意味の時代」だった。新雑誌の創刊点数の多さと、休廃刊された雑誌の数の多さが、そのことを証明している。一九八〇年代に、雑誌というものは変わってしまい、変わることにかなりの程度、失敗したのだ。」(「愚蒙を排す」)
1970年代後半以後は総合雑誌橋本のこの文章が連載された『中央公論』自身のようなが象徴していた権威ある「活字」が意味を失い、読者の支持を失っていく時代だった。そうしたなかで新たに創刊され、例外的に継続的かつ大規模な成功を収めた雑誌が二つある。『POPEYE』マガジンハウス、1976年創刊と『JJ』光文社、1975年創刊である。橋本は『浮上せよと活字は言う』の大半を、この二つの雑誌が出版界にもたらした変化の意味について論じることに費やす。その熱量がいま読むと不思議なほどに。
「古い分類」では「新しい意味」はすくえない
二つの雑誌の具体的な特徴を論じる前に、橋本はまず、当時の出版業界がどのように雑誌を分類していたかに目を向ける。『POPEYE』と『JJ』はいずれも「ファッション誌」と呼ぶのがふさわしい内実を供えた雑誌だ。しかし1980年当時の出版業界の「雑誌統計分析」には「ファッション誌」という独立した部門がなかった。橋本が引用するところによると、雑誌は当時以下の25の部門に分けられていた。
児童・婦人・大衆・総合・文芸・芸能・美術・音楽・生活・趣味・スポーツ・経済・社会・時局・哲学・学参(学習参考書)・語学・教育・地歴・法律・科学・工学・医学・農水・週刊誌
この分類を橋本は「役所のセクションと大学の学部一覧に”週刊誌”という不思議なものがくっついている」と評するが、言い得て妙である。たとえば、この一覧には「婦人」はあっても「女性(誌)」や「ファッション(誌)」という区分がない。(ちなみに現在、日本雑誌協会ではこのように雑誌のジャンルを分類している。「多様化」といえばいえるが、分類基準の混乱はむしろ増しているように思える)
「一九七〇年代の後半から新雑誌の創刊ラッシュを迎える出版界は、まず、自分達がこういう不思議な分類項目の下で世界を把握して来たことの古さを考えるべきだったのだ。この考え方が古いから、新雑誌というものが登場しなければならなかったのだし、「雑誌の時代」という形で、雑誌=”大衆的なるもの”にスポットが当てられなければならなかったのだ。」(同前)
そのように考える橋本にとって、『POPEYE』と『JJ』はまさにこの時代の「大衆的なるもの」を体現した雑誌だった。
では、なぜこれら二つの雑誌は画期的だったのか。橋本によれば『POPEYE』は「活字の意味を放逐する」という役割を果たし、『JJ』は「社会から規律を放逐する」という役割を果たした。両者の共通点は「見事に読者の声を反映させた」こと、「そしてそのことによって、編集権を放棄するというような離れ業までやって見せた」「断絶を論ず」ことにある。二つの雑誌は「ファッション」というかたちで当時の「現実」を体現し、それを知らない「知性」はその現実に敗北したのだ――橋本はそう断じた。
コラム化した「活字」は主役から降りた
これらの雑誌が「活字」にもたらした最大の変化は、すべての文章のコラム化である。日本の出版業界でいわれる「コラム」は、columnが本来もつ「論説」というニュアンスを失った「短文の囲み記事」のことだ。
『POPEYE』や『JJ』以後、より正確には『an・an』以後に登場したビジュアル中心の「見る雑誌」では、グラフィックデザイナーがあらかじめ誌面を緻密に構成し、いわゆる「先割り」でレイアウトを行う。そこでは「活字」は雑誌を成り立たせる主役の座を追われ、決められた文字数のマスを埋める「部品パーツ」に過ぎなくなった。同じく和製英語の「ライター」とは、雑誌における部品としてのテキストを発注される納入業者のことである。
とはいえ、橋本はそのようにデザインやグラフィックに対して言葉活字が従属的な地位に追いやられたこと自体を、直ちに批判しているわけではない。橋本自身、作家デビュー以前はイラストレーターであり、少女マンガをはじめとするビジュアル表現のうちに新しい意味と希望を読み取った書き手だった。そして橋本自身、当時生まれたさまざまな「新雑誌」に幾多の「コラム」を書いた当時のコラム・ブームを皮肉った『デヴィッド100コラム』という題の書き下し本さえある
『POPEYE』や『JJ』の登場には、旧来の「活字」によっては把握できなくなった、さまざまな新しい「意味」が込められていた。しかしその新しい「意味」はながいこと言葉によって把握されず、したがって社会のなかで正当に位置づけられることもなく、可能性はただの可能性のまま実を結ぶことなく萎れていった。橋本は『浮上せよと活字は言う』でそう論じたのだった。
『POPEYE』と『JJ』のうち、その後によく論じられ、関係者による証言も豊富に残されているのは『POPEYE』のほうである。代表的な著作としては、初期の編集部員として関わった椎根和による『POPEYE物語――若者を変えた伝説の雑誌』新潮文庫、この雑誌の愛読者だった赤田祐一による『証言構成『ポパイ』の時代―ある雑誌の奇妙な航海』太田出版がある。同誌を生み出した出版社、マガジンハウス平凡出版をめぐる本まで含めれば枚挙にいとまがない。なのでここでは、その後もあまり語られることのなかった『JJ』について、橋本の論と、その後について述べることにしたい。
「コーディネート」という実用的知性
橋本は『JJ』のどこに新しさをみたのか。それは同誌に先立つ、先鋭的な女性ファッション誌の草分け『an・an』との対比により以下のように説明される。
「それが「新しい思想」であったのなら、まだ事態は活字人間にとって把握可能なものだっただろう。しかし『JJ』は思想誌ではなかった。「カタログ雑誌」とも呼ばれた、単なるファッション誌だった。「既にすべてはそこにあって、だから、そこには秩序立てコーディネートが必要だ」という、その思想だけが、コマ切れの写真の中から見えていただけだ。」「三度断絶を論ず」
ここで「思想誌」と呼ばれているのは『an・an』のことである。たしかに『an・an』は女性ファッション誌のあり方に一つの革命をもたらした。しかし、この先鋭的な雑誌が提示した「思想」は、日本の多くの女性たちにとって「現実の役に立たない」ものだった。その意味では外来の最新思想が、大半の日本の男にとっての身に沁みないのと同じである。
それに対して『JJ』は、過去の様々な時代の「思想ファッション」の流行がもたらしたデッドストック的な蓄積――男にとっての「積ん読本」のような使われないままの知性――に、一枚のスカーフの使い方に象徴されるような「コーディネート秩序立て」という「実用」を提示した。そのことで『JJ』はファッションから「様式」というかたちで存在してきた伝統的な「規律」を放逐した、と橋本は言う。
規律なき伝統は「ニュートラ」と呼ばれ一般化すると同時に、日本の平凡な――「コンサバ」とも呼ばれたとおり、保守的でもある――女性たちに、「考えるということは、具体的に、この現実をどうするかを考えることだ」という知恵をももたらした。「そして、そのまんまどこかへ行ってしまったのだ」、と。
ところで、『浮上せよと活字は言う』で橋本治がこのように書いてから、すでに30年近い歳月が経った。『POPEYE』はその後、幾度もの方向転換ののち、「若者」というよりもずっと薹が立った「活字」好きな青年向けコラムマガジンとして存続している。他方、『JJ』はインターネットとSNSの時代が本格化するなかで急激に部数を落とし、2021年2月号をもって不定期刊行化とウェブ媒体への移行が発表された。紙媒体としては事実上の休刊である。
そのように『JJ』休刊が報じられた後、1990年代に同誌の熱心な読者だったという作家の鈴木涼美による『JJとその時代 女のコは雑誌に何を夢見たのか』光文社新書が刊行された。本書は実感的・体験的なすぐれた『JJ』論であるのみならず、『JJ』とその同時代の女性ファッション誌論、普遍的な雑誌論である。橋本が「そのまんまどこかへ行ってしまった」と嘆じて以後、「どこかへ行ってしまった」もの、つまり若い女性たちにとっての「現実」を語る言葉は長いこと不在だった。ようやく「活字」によってその現実が捉えられたのだとしたら、新たな知性もまたそこから「浮上」しうるのかもしれない。
本文中に登場した書籍一覧
『POPEYE物語――若者を変えた伝説の雑誌』著 椎根和新潮文庫 2010年
『証言構成『ポパイ』の時代―ある雑誌の奇妙な航海』著 赤田祐一太田出版 2016年
『増補 浮上せよと活字は言う』著 橋本治平凡社ライブラリー 2002年 
『JJとその時代 女のコは雑誌に何を夢見たのか』著 鈴木涼美光文社新書 2021年
当記事はModern Times 2022年2月に公開された記事の再掲載です

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# 知性是否会再次浮上
## 杂志更迭的无意义时代
继上次之后我们继续阅读桥本治于1994年出版的《浮上せよと活字は言う》文字说必须浮上来。这本书是桥本治关于书籍的论述也是关于出版的论述。其中有许多篇幅论述了自1970年代后半期以来发生决定性巨变的杂志。
众所周知1980年代被称为"杂志的时代"。但这个时代不仅诞生了许多杂志,停刊的杂志也很多。如果意义已失的旧杂志消失,由承担新意义的杂志依次诞生,那倒也不错,但这个时代创刊的许多杂志也没能稳定地获得读者支持,早早便消失了。关于这种情况,桥本是这样论述的:
"准确地说1980年代并非'杂志的时代'。1980年代是'杂志更迭的时代',是'杂志更迭的无意义的时代'。新杂志创刊数量的多以及停刊杂志数量的多都证明了这一点。在1980年代杂志这种东西发生了改变而在改变这一点上可以说是相当失败的。""排除愚蒙"
自1970年代后半期以来综合杂志正如桥本文章连载的《中央公论》自身所象征的权威"文字"失去意义读者支持丧失的时代到来了。在这样的背景下新创刊并例外地持续取得大规模成功的杂志有两本。《POPEYE》Magazine House1976年创刊和《JJ》光文社1975年创刊。桥本在《浮上せよと活字は言う》中用大半篇幅论述这两本杂志为出版界带来的变化的意义。这份热度在今天读来令人感到不可思议。
### 在"旧分类"中无法把握"新意义"
在论述两本杂志的具体特征之前桥本首先将目光投向当时的出版业界是如何分类杂志的。《POPEYE》和《JJ》都具备了可称为"时尚杂志"的内容。但1980年当时出版业界的"杂志统计分析"中并没有"时尚杂志"这一独立部门。据桥本引用当时杂志被分为以下25个部门
儿童・妇女・大众・综合・文艺・演艺・美术・音乐・生活・趣味・体育・经济・社会・时局・哲学・学参(学习参考书)・语言・教育・地历・法律・科学・工学・医学・农水・周刊杂志
桥本评价这个分类为"像役所的科室和大学的学部列表中被附上了'周刊杂志'这个不可思议的东西",可谓一语中的。例如,这个列表中有"妇女"但没有"女性(杂志)"或"时尚(杂志)"的区分。(顺便说一下,现在日本杂志协会这样分类杂志的体裁。要说是"多样化"的话倒也可以,但分类标准的混乱似乎反而增加了)
"自1970年代后半期迎来新杂志创刊热潮的出版界首先应该思考的是他们是在这种不可思议的分类项目下把握世界这件事的古旧。这种思维方式是旧的所以新杂志必须登场必须以'杂志的时代'这一形式,让杂志='大众性的东西'成为焦点。"(同上)
这样思考的桥本认为《POPEYE》和《JJ》正是体现了这个时代的"大众性的东西"的杂志。
那么为什么这两本杂志具有划时代的意义呢桥本认为《POPEYE》起到了"驱逐文字的意义"的作用《JJ》起到了"从社会中驱逐纪律"的作用。两者的共同点在于"出色地反映了读者的声音""并且由此甚至做到了放弃编辑权这样的绝技""论断绝")。两本杂志以"时尚"这一形式体现了当时的"现实",而不知道这一现实的"知性"在那现实面前失败了——桥本如此断言。
### 专栏化的"文字"从主角位置退下
这些杂志给"文字"带来的最大变化是,所有文章的专栏化。在日本出版业界被称为"专栏"的指的是失去了column原本具有的"论说"这一语感的"短文围栏文章"。
在《POPEYE》和《JJ》之后更准确地说是在《an・an》之后出现的视觉中心的"看杂志"中,图形设计师预先精密地构成版面,进行所谓的"预分配"进行排版。在这里,"文字"失去了使杂志成立的主角地位,仅仅成为填满规定字数格子的"部件parts"。同样是和制英语的"Writer",是指被订购生产作为杂志中部件文本的供货商。
尽管如此,桥本本人并非立即批判语言(文字)被设计和图形置于从属地位这一事实。桥本自身在作家出道前是插画师,在以少女漫画为代表的视觉表现中读出了新的意义和希望。而且桥本自身当时为新诞生的各种"新杂志"撰写了众多"专栏"甚至有讽刺当时专栏热潮的著作《David100专栏》
《POPEYE》和《JJ》的登场蕴含着凭借旧"文字"无法把握的各种新的"意义"。但这些新的"意义"很长时间未能被语言把握,因此也未能在社会中得到正当定位,可能性始终只是可能性,未能结出果实而枯萎了。桥本在《浮上せよと活字は言う》中如此论述。
在《POPEYE》和《JJ》之中之后经常被讨论、相关人士证言也丰富留存下来的是《POPEYE》。代表性著作有作为初期编辑部成员参与的椎根和的《POPEYE物语——改变年轻人的传说杂志》新潮文库以及作为该杂志爱读者的赤田祐一的《证言构成〈POPEYE〉的时代——某杂志的奇妙航海》太田出版。包括围绕孕育了该杂志的出版社Magazine House平凡出版的书在内不可胜数。所以在这里我想论述一下之后不太被提及的《JJ》以及桥本的论述及其之后的发展。
### "搭配"这一实用性知性
桥本在《JJ》的什么地方看到了新意呢这通过与该杂志之前、先锐的女性时尚杂志先驱《an・an》的对比如下说明
"如果那是'新思想'的话情况对文字人类来说还是能够把握的。但《JJ》并非思想杂志。被称为'目录杂志'的,仅仅是时尚杂志。'所有一切都已在那里,因此需要秩序(搭配)'这一思想,仅此而已,从切碎的照片之中能够看到。""三度论断绝"
这里被称为"思想杂志"的是《an・an》。的确《an・an》为女性时尚杂志的应有方式带来了一场革命。但是这本先锐杂志提示的"思想",对许多日本女性来说是"现实中没有用处"的。从这个意义上说,外来的最新思想,对大半日本男性来说也是难以切身体会的。
与此相对《JJ》为过去各个时代的"思想=时尚"流行所带来的死库存式积累——对男性来说如同"积压的未读书"般的未被使用的知性——提供了以一枚围巾的使用方法为象征的"搭配/秩序"这一"实用性"。由此《JJ》从时尚中放逐了以"样式"这一形式存在的传统"纪律",桥本如是说。
无纪律的传统被称为"中性"neutral并得到一般化同时为日本的平凡的——正如被称为"保守"的那样,也是保守的——女性们带来了"思考就是具体地考虑如何处理这个现实"这一智慧。"然后,就那样直接到哪里去了"。
另外《浮上せよと活字は言う》中桥本治这样写道以来已经过了近30年。《POPEYE》之后经过数次方向转换作为比"年轻人"更加成熟的"文字"喜欢的青年向专栏杂志存续着。另一方面《JJ》在互联网和SNS时代正式到来之中急剧减少发行量2021年2月号宣布改为不定期刊行并向网络媒体迁移。作为纸质媒体事实上休刊了。
在《JJ》休刊被报道后1990年代作为该杂志热心读者的作家铃木凉美撰写了《JJ与其时代 女孩子向杂志梦想着什么》光文社新书。本书不仅是切实的、体验式的优秀《JJ》论也是《JJ》与其同时代女性时尚杂志论是普世的杂志论。桥本叹息"就那样直接到哪里去了"之后,"到哪里去了"的东西,即年轻女性们现实的"语言"曾长期缺席。如果终于能够通过"文字"把握那现实的话,新的知性或许也能从那里"浮上"。
## 正文登场书籍一览
《POPEYE物语——改变年轻人的传说杂志》 作者:椎根和(新潮文库 2010年
《证言构成〈POPEYE〉的时代——某杂志的奇妙航海》 作者:赤田祐一(太田出版 2016年
《增补 浮上せよと活字は言う》 作者桥本治平凡社Library 2002年
《JJ与其时代 女孩子向杂志梦想着什么》 作者:铃木凉美(光文社新书 2021年
本文是2022年2月在Modern Times公开的文章的再刊